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螢雪ゼミナールの先生の日常がよくわかる!螢雪紹介ブログ ケイセツの先生が普段感じていることやみなさんに伝えたいことを綴っていきます。塾生・保護者の方々はもちろん、OB・OGも気軽に参加してください。 螢雪ゼミナールの先生の日常がよくわかる!螢雪紹介ブログ ケイセツの先生が普段感じていることやみなさんに伝えたいことを綴っていきます。塾生・保護者の方々はもちろん、OB・OGも気軽に参加してください。

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行動する勇気

三田洞校 平松 孝裕

三田洞校の平松です。

さて、今回は大好評の「歴史のif」シリーズです。
(興味のある方は、過去の投稿をご覧ください。)

本日のテーマは「長篠の戦い」です。
本日のテーマは「長篠の戦い」です。
厳密には決戦の地は「設楽原」という野戦による決着だったので
「長篠・設楽原の戦い」です。

螢雪ゼミナール 三田洞校 長篠の戦い

ざっくり、背景を説明いたしますと
武田軍は、その前に武田信玄が三方ヶ原の戦いで、徳川軍をコテンパンにたたき潰しましたが、その後武田信玄が亡くなってしまいます。

後を継いだ、武田勝頼(側室の子で4男)が改めて、徳川軍を攻めて、まずは長篠城を占拠しました。その後、設楽原で決戦と相成ります。


ちょっと年齢のいってる方は、信長が鉄砲を3段仕掛けにして(いわゆる3段撃ち)
武田軍の精強騎馬隊を完膚なきまでに叩き潰し、その結果武田家は滅んだ。と記憶されている方も多いと思いますが、今の通説ではこれはありません。

結論から言うと、「野戦という名の籠城戦」でした。通常、少なくとも城を攻める側は守る側の3倍以上の兵力が必要と言われます。
この戦いにおいては、攻める側が武田軍、守る側が織田・徳川連合軍です。

ちなみに、この戦いにおいては
武田軍 15000人 織田・徳川連合軍 38000人と言われています。

えっ・・・
そもそも全然足りてない!!!

そうなんです。
実は、武田勝頼はこの戦いを戦ってはいけなかったんです。


一般的に、武田勝頼の敗因は
①これが城攻めだという認識が薄かった
②一度落とした長篠城をすぐに取り返され、退路を断たれていた
③武田信玄から世代交代が上手くいかず、家臣団の結束力に欠けた

などと言われていますが、私の中で一番の敗因は
「退却する勇気の欠如」ではないでしょうか。

多分、勝頼は自分が、偉大過ぎる父、信玄ほど家臣から信頼されていないことは分かっていたんでしょうね。だからこそ、結果を出して、家臣の信頼を勝ち取りたかったんでしょう。
彼も、人間です。そういう気持ちが強かったのでは・・と推察します。

この戦いにおいて、もっとも信頼していた親族たちは真っ先に逃げました。
残された、信玄をずっと支えてきた重臣たちは、特攻し、戦場の露となっていきました。


やはり、一歩踏み出す「勇気」って大切だなあと感じさせられます。
そもそも見誤った感はありますが、もっと早く逃げていれば・・・
その後の歴史は変わっていたかもしれません。

みなさんも、何か決断をするときには勇気が必要になりますが、一歩踏み出してみましょう。これからの人生で、新しい一歩を踏み出すときに勇気を出して頑張ってみましょう。

さて、歴史のifですが・・・
長篠の戦いで、武田家があそこまで叩き潰されなかったら・・・

この時の信長にとって、最大の敵は石山本願寺でした。勝頼に勝利したことにより、戦力を一向一揆に向けることができ、一気に天下統一に加速しました。つまり、武田家の力がそこまで落ちなければ、石山本願寺戦が長引き、天下統一は・・・

同時に、徳川家康が台頭することは出来ませんから、江戸時代は・・・

そう考えると、ワクワクしますね。ちなみに、信長。桶狭間の戦いのときもそうでしたが、
やはり何かを成し遂げる人は、天も味方するようです。設楽原は快晴でしたので。
もし、この日雨が降っていたら・・・(鉄砲が使えなかったら・・・)
結果や如何に(笑)

ケイセツゼミナール at 2020.11.6 14:53│comments (0)│trackback (x)│





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